Kitachangの日記

どうしようもない文章

猫はもはや、崇拝対象である。

猫は可愛い。これは普遍的なものである。

 

例を挙げよう。情報化が進んだ現代、 Twitter, Instagram などのSNSで自分や他人の写真を貼り付け、発信する側と受け取る側で楽しみや喜びを共有しようとする文化が当たり前になってきている。そんな中、ある人が猫の画像をアップしたとする。すると、すぐにいいねが飛んでくるだろう。これは、赤ちゃんの写真を見た人が皆、その赤ちゃんを可愛い、と言うことに似ている。赤ちゃんを見て冗談で「ブサイクだな〜笑」と罵ることはあっても、本気で罵倒する人は居ないだろう。

 

そんな可愛い猫だが、その影響力を舐めてはいけない。例えば、元イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは、自分の死後、自宅を英国政府に寄付する条件として、愛猫ジョックを永久に住まわせることを提示したのだという。かたや、ホワイトハウスに史上初めて猫を持ち込んだリンカーン大統領は、「猫を大事にしない奴は信用出来ない」とまで言っている。もはや猫とは信用問題である。転じて、政治問題である。ホワイトハウス内では、猫は尊すぎて、もはや忌むべきものとなっていたに違いない。誰もが猫を崇め奉り、通りかかる野良猫にすら礼拝をする始末であろう。これは、これまで長い歴史で安定してきた生物史の序列が崩壊した瞬間である。猫は悠々と人類の上に君臨し、鷹揚と猛威を振るう。法治主義などはもう過去の産物、猫治(びょうち)主義の時代の到来である。

 

この時代の中、ごく一部の人類であるが、ぬこ様にお近づきになろうとするものがいる。にゃんこコスをする者達だ。彼女らは猫耳肉球、しっぽを携えて、同じ人間に対してにゃんにゃん♪と甘えてかかるのである。このことに対する世間の風当たりは冷たい。アホくさい、打算的、現実逃避...。冷たい視線を受けているが、人間はこのにゃんこ達を下に見てはいけない。その実、彼女らは人間という枠組みを脱し、猫という、より高尚な枠組みへと昇華しているからである。